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授業【地域デザイン】発見!消えた天然記念物「葡萄櫨の原木」は生きていた?!

公開日: : 最終更新日:2017/12/23 地域デザイン授業記録簿, 葡萄櫨の原木調査

地域デザインブログ用イメージ

夏休みは教員にとって授業作りの時間がまとまってとれる絶好の機会です。

今回は、以前「ブドウ櫨の原木を探す」の記事でお伝えした天然記念物「葡萄櫨の原木」らしき櫨の木のことについて教材研究の一環として調べたのでご報告します。

 

原木らしきこの木は地元の方のお話では「昔からそこにあった」とお聞きしました。

しかし、野上町誌(以後、町誌と省略)の一節に「現在は枯死してその跡形も無い」と表記され、和歌山県の天然記念物一覧からその名が消えています。

天然記念物が枯死したにしてはあっさりとした表記であったことに疑問を抱き、近畿大学文芸学部の民俗学者藤井先生に調べる方法について相談したところ、「一度でも登録されて天然記念物なら、必ず報告書が県立図書館にあるはずですよ」とのアドバイスを頂き、早速図書館に行ってみました。

書庫から取り出していただいた資料の要約を下に掲載します。

関心のある方は、ブログ記事「ブドウ櫨の原木を探す」に参考資料として掲載した文章と読み比べていただくとその違いが判ります。以後、その文章の違いを説明します。

 

天然記念物調査報告 によると、葡萄櫨の原木は松瀬(原木探しで行った場所)の勇三さんが発見し、守り育て、那賀郡樋下村の大西健之助さんと市場村の森田忠兵衛さんの努力によって広められた。と記載されています。

一方、町誌によると、葡萄櫨の原木は那賀郡樋下村の大西健之助さんの自己所有の土地に生えていて、森田忠兵衛さんの努力によって広められた。と記載されています。町誌の最後には、松瀬の葡萄櫨が原木といわれて天然記念物になっているのは、接ぎ木に使う穂木として人気のある葡萄櫨の樹で、加えて樹齢が古いからではないか?と書かれています。

原木の発生地に(松瀬地区と樋下地区)かなり大きな違いがありますが、

図_松瀬地区と樋下地区の位置関係

 

登場する時代の年数などに相違はありませんので、同じ文献が参考資料となって書かれたものである可能性はあります。

そこで、天然記念物調査報告で参考文献として紹介されていたもうひとつの資料「木の国山林時報」を調べてみることにし、もう一度図書館に行くことにしました。

結果、町誌で発見者と記載されている樋下村の大西健之助さんは元々松瀬の出身で、自己所有の畑とは松瀬の畑である可能性があり、原木発見者はやはり勇三さんであると記されていることがわかりました。

確かに、大西健之助さんからすると自分の畑(実家のある松瀬地区)に自生していた(勇三さんからもらった)葡萄櫨の原木を接木した。といいうことをカッコの中を省いて伝えてもおかしくありません。

この事から、町誌で言われる大西健之助さんが発見者である。ということは、厳密にいえば間違いであると理解でき(功労者であることは変わりありません)、天然記念物調査報告書に記載されている勇三さんが発見者であり、松瀬の葡萄櫨が遺伝的にも原木である。(接木をされていない、世界で唯一の実生の葡萄櫨)という内容の裏づけが取れました。

そこで問題となってくるのは、この木が本当に現物なのかということです。

地域の方にお話を伺ったときには「実を見れば葡萄櫨であることはすぐわかります」とおっしゃっていました。

しかし、近くにたまたま接ぎ木されていた葡萄櫨である可能性も捨て切れません。

私は、この問題を解決する手がかりとして、天然記念物調査報告に記載されている以下の情報に注目しています。

①原木の住所

②原木の大きさ(4本に枝分かれしている、幹周り1.2m、高さ5m)

③近隣の状況(棕櫚と竹の造林)

④原木の写真

①の住所は、まさしく以前の原木調査で伺ったその場所で間違いありませんでした。

他の情報は年数がかなり経っているので決め手にはしにくいですが、

②現物の木の大きさは記載されている大きさよりは大きく、枝分かれしている本数は現物は2本と少ないですが、折れた後があるため、成長を考えれば十分に似た形と大きさの櫨の木といえると思います。

また、③の「竹と棕櫚に覆われた造林」であるところも、現在の雰囲気そのままです。

決定的なのは④だと考えています。写真を昨年度撮影した写真と比べてみます。

80年以上まえ写真なので枝が無くなっていたりしますが、かなり似ています。

葡萄櫨の原木写真鑑定-02

 

ここまで状況が一致するということは偶然とは考えにくいと思いますが、今週の夏休み明けの地域デザインの授業で同じ構図から写真を再撮影してみたいと思います。

では、葡萄櫨の原木が天然記念物から除外されたのは何故なのでしょうか?

その答えは、今はわかりません。現時調査中です。ご存知の方はどうぞご教示いただければ幸いです。

 

今回、夏休みの教材研究の一環で始まった当調査で、

葡萄櫨の木を若い頃に見つけ、道の造成工事で危機に瀕した「それ」を現在の場所に移動し、大切に育ててきて、日本全国にその名を知られるようになる葡萄櫨を残し、その栄光を見ずに他界した勇三さんの功績も一緒に忘れられていたことに大きな衝撃を受けました。

昭和8年頃に書かれた天然記念物調査報告では、「竹及び棕櫚の造林中に老体を横たえ樹勢振るわず枝も甚だ少なく、これがあの葡萄櫨の原木なのかと、訪れるものを轉々寂寥に悲しませている。」と締めくくられています。故に天然記念物としてこの樹をしっかり守ってあげてほしい。ということでしょう。

私たちりら創造芸術高等学校の調査でも、竹を切らなければ近くに寄れないほどに原木周辺は寂しい状況になっていました。

今年から、わかやま版「過疎集落支援総合対策」事業として支援を受け、志賀野地区の有志の方々が、この櫨を使って地域おこしをしようと努力されています。

この葡萄櫨の原木は、日本でも希にみる現存する優良品種の櫨の原木であり、まさしく地域の宝だと思います。

天然記念物であっても、そうでなくても、しっかりと見守っていきたいと思います。

 

りら創造芸術高等学校

地域デザイン担当教員 鞍 雄介

 

葡萄櫨に関する次回のブログ『地域デザイン 葡萄櫨の原木調査「実物計測」』

 

出典:和歌山県史跡名勝天然記念物調査報告十三 鞍意訳

天然記念物
葡萄櫨の原木
委員 勝田良太郎 報告
1 所在地 那賀郡志賀野村大字松瀬字北峰▪️▪️▪️
1 地目 山林
1 地積 1畝歩
1 所有者 那賀郡志賀野村大字松瀬▪️▪️▪️ 吉瀬善次郎
1 説明 この原木は今を去る役100年前天保年間前期那賀郡志賀野村松瀬の吉瀬家所有山林に自生したもののようだ。
そのころ吉瀬家の主人を勇三と云い、まだ若年の頃ではあったが、その櫨の種が大きくそだつことを不思議におもい、そのとき櫨の栽培はやや衰退している時期ではあったが努めてこれを保護したという。

今の家主吉瀬善次郎氏は勇三氏の孫にあたり、その母(すなわち勇三氏の娘にして明治元年生まれ)はこのときの事情を聞き伝えに聞きいたところによれば勇三氏(明治6年61歳にて死亡)がまだ若者の頃屋敷近くの山辺に一本の櫨の木が自生するのを発見した。たぶん鳥類が運んできた種より発芽したものであろう。その実は普通の櫨とは違い、すこぶる大きかった、他の櫨の木は多く栽培しているがこの木の実は特に手厚く保護を加えていた。間もなく木の所在地は道の工事が始まった。このことから現在の場所へこれを移植したと云う。この後嘉永5年(1852年)那賀郡下神野村桶下に大西健之助という人がいた。櫨の栽培に意欲をもち所用のため松瀬に来たところ優良な櫨があるのを知り、このものが接穂をもち帰り、初めて在来櫨に接木を行った。
こうしてその後の経過について本県農事調査書に記載されたところに依れば、その後5年にして安政3辰年(1856年)。初めて5房の実を結び、その房長く子実最も大きく発熟の季節になると外皮に薄黒色を帯びて白粉が付着し極めて美麗になるのを見て、これを不思議におもい、以来培養をサボらず年々豊熟に雌雄なく毎年収穫を増加したといえども僅かに1樹の結実のみであったため、脂油の多寡(多いか少ないか)、品質の良否を試験するわけにはいかず、空しく歳月が経過した。其の頃、那賀郡下神野村市場に森田忠兵衛というものがいて、常に農事に関心があり注意を注いでいたので、このことを聞きつけ、この樹の栽培及びロウ分の多寡と品質の良否とを試そうと意欲を出し、萬延元申年(1860年・安政7年)に所有の山林およそ3反歩を開墾して文久元酉年(1861年)この場所に台木200本以上を植え付け、文久3亥年(1863年)大西健之助に相談しこの樹の枝を求めてしだいに接木をして3年の後慶應元丑(1865年)年初めて実を結び翌寅年(1866年)にようやく収穫し8貫目(30kg)を得、その形状はあたかも葡萄に類似しているところから、両人に相談し、これに葡萄櫨と命名したと云う。以来栽培に力を尽くし慶應3年(1867年)に25貫(93.75kg)、明治元年に(1868年)30貫(112.5㎏)、明治5年(1872年)に150貫(562.5㎏)、明治10年(1877年)には500貫(1875㎏)の収穫をえるに至りこれに忠兵衛(那賀郡下神野村市場の森田忠兵衛)等は、ロウ油の搾取を試み、子実10貫目(37.5㎏)につき生ロウ2貫700匁から2貫900匁に達し、加えてこのロウ油は白色にして少し青色を帯、これを燈用のロウソクにすれば光線が極めて美麗にして普通のロウより卓越し価格も普通の種類より1.5倍の高値をつけたことから、近隣町村の住民の知るところとなったと云う。
明治10年以降、葡萄櫨の良さは益々各地に知られることとなり結果、接穂 種実の注文は年々増加し県内は勿論県外とくに四国、九州よりの注文が多く福岡県の古賀へは数10万本の接穂を送付したという。
なお、葡萄櫨の移植普及に貢献した功労者(篤志家)として、海草郡巽村阪井の蠟家 山本直次郎氏をあげざるおえない、氏も又これが普及を企て自らの商才を利用して県内は勿論広く全国的に普及活動に努め自ら「大日本櫨種改良首唱者」と称して当時の新聞雑誌に広告するほか、諸官庁各地の業者に直接書面を送る等により同種の優良にして栽培の有利なることを伝えた結果、ついに本県の葡萄櫨は全国に知られたり明治18年以降数年間各地方諸官庁や業者からの注文が殺到し種子・穂木・苗木を乞うものが甚だ多く、北は青森県、南は鹿児島県まであますことなく、 現在注文状の保存をしているもののだけでも1000通に上り、しかもいちいち注文書を検査するに言葉を(卑ふし禮を厚ふし)て種子苗木穂木の分譲を依頼してきているところからも、当時いかに葡萄櫨が重要視されていたかをしることができる。これにおいて山本氏は特に栽培の盛んなる福岡県鞍手郡へ粟田四郎を出張員に命じ、苗木。種子の販売に栽培指導をさせた。
このように有用になったのでこの報告の主体となる志賀野村の原木も各地より穂木を求める者が多くこの樹の生育を阻害していることが著しく今は、樹勢不良にして梢枯が著しい状態である。樹の大きさは根元において幹周り4尺(1.221m))高さ18尺(5.4m)、地上1尺の処より4枝に分かれ各々枝周り1尺4寸、2尺、1尺7寸、2尺7寸あり、竹及び棕櫚の造林中に老体を横たえ樹勢振るわず枝も甚だ少なくこれがあの葡萄櫨の原木なのかと、訪れるものを轉々寂寥に悲しませている。
(以上 吉瀬善次郎氏提出の指定申請書 並びに添付の木国山林時報による)

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