授業【地域デザイン】 ブドウ櫨の原木を探す
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最終更新日:2017/12/23
地域デザイン授業記録簿, 最新情報, 葡萄櫨の原木調査
授業地域デザインでは、京和ろうそくの原材料になるブドウ櫨についても調べています。
以前のプロジェクトフィールドワークで、吉田製蝋所様からお貸しいただいた資料の中に、野上町誌があり、そこには「ブドウ櫨の原木が松瀬地区にあり、昭和30年ごろに枯死した」とありました。
※詳細は、最後に記載している資料を参照ください。
しかし、前回の特用林見学でお会いした松瀬地区の湯谷様から、
「40年前には、ブドウ櫨の原木と書かれた看板があった。今もその場所にはブドウ櫨が生えています」との情報を頂きました。
全国にその名を知られたブドウ櫨の原木の跡地に生えた原木直系のブドウ櫨を見たい!
という話になり、今日は、授業「映像表現」のメンバーとともに取材に行くことになりました。
学校から、約20分。道なきみちを突き進み、やっとブドウ櫨と対面しました。
竹に侵食されてはいましたが、幹まわり158センチで二股に分かれた立派なブドウ櫨でした。
ブドウ櫨をバックに湯谷様に取材をしています。
授業「映像表現」の特別講師でカメラマンの宝門先生と松本先生の指導で、ドキュメンタリーとして使えるクォリティーで撮影を行いました。
原木とも出会えて、本当に貴重な調査となりました。
湯谷様、調査へのご協力ありがとうございました!
葡萄櫨に関する次のブログ『テレビ取材 ブドウ櫨』
以下、参考にした資料の写しになります。興味のある方はご覧ください。
資料【野上町誌 下巻 第4章 工業 第5編 産業経済の発達 第三節】p206~209より
第5編 産業経済の発達
第三節 櫨と製蝋
櫨の栽培
櫨は山野に自生する植物であるが、紀州では江戸時代の中ごろまでは注意をひく者はなかった。元文元年(1736)有田郡箕島の人、田中善吉は紀伊藩の命を受けて、甘十庶苗を購入するため九州へ行った。その時薩摩(鹿児島県)の到る所で櫨樹を栽培してその利益の多いことを知り、苗木を少し持って帰り、箕島村にこれを試植した。その樹は年ごとに子実を結び、これを採って晒してみたが、品質が良く、他国産に劣らなかったので、九州南部と我が紀州とは気候もよく似ているので、櫨の栽培には適していると信じ、藩主に意見具申をしたのである。藩主はこの意見を採り入れ、延享二年(1745)以後苗木を各所に配布して大いに奨励したが、最初はあまり振わなかった。
明和五年(1768)三月、田中善吉の子田中長右衛門が海士、名草、那賀の三郡一六組へ、はぜ実を三升一包みと、それに栽培についての初歩的な技術指導の書翰をつけている(『下津町史』)。
当時の野上組の大庄屋は山本喜平次で、このはぜ実をどのように各村に配布したかの記録はない。しかし年代不明ではあるが次の文書は、櫨の植付を勧奨したもので、野上地方に櫨の生産が多かった原因とも考えられる。
この文書は、何れから何れへ宛てたものかは判らないが、組内の各村々の櫨の植付場所及び数量を大庄屋へ申
告させるためのもので、このように、藩主の殖産興業の一環として、藩の行政機構を通じて各部から大庄屋への通達によったものであろう。
櫨はどんな痔地でもよく繁茂し、労力も要しないため栽培区域が広がり、野上においても柴目村や志賀野庄での栽培が盛んになった。紀州の致る所で栽培されるようになると、製蝋業者も多くなり、宝暦年間から天保年間にかけての約100年間は、製蝋業がますます進み、販路は大いに開けたが、収益が多くなるに従って、悪徳業者の手によって粗製濫造が流行して「紀州ろうそく」の声価は一時に低落した。そのため他国産に圧倒されて漸次市場から駆逐されて、嘉永、安政(江戸末期)のころは、販路はほとんどなくなり、櫨実は暴落したため、樹を伐採する者さえでてきた。そこで藩としては百方手段を尽くして依復の策を講じようとして民間に向かってしきりに督励の令を発したり、藩自らも経営して、ひたすらその振興をはかった。
ブドウ櫨の発見
櫨の栽培は不振であったころ那賀郡樋下村(美里町)大西健之助は嘉永五年(1852)自己所有の山畑において、普通の櫨とは異なった葉のやや大きい天然に生じた櫨を発見し、試みにこれを栽培してみたが、五年後の安政三年(1856)初めて五房の実を結んだが、その房は長く、子実は大きく熟するころになれば外皮に薄黒色の白粉をつけ、極めて美しいのを見てこれを不思議に思い大事に育てていた。毎年豊かなみのりを見せたが、惜しくも一樹であることと、脂油の多寡や品質の良否を試験することができず空しく歳月を過ごしていた。
たまたま隣村の市場村(美里町)の森田忠兵衛は、このことを聞き万延元年(1860)自己所有の山三反歩を開いて、その翌年台木200本余りを植付け、二年後大西氏と相談して、大西氏発見の櫨を穂として接木し、慶応元年(1865)初めて実を結び、翌二年八貫匁の収穫を得た。その形はブドウによく似ていたので、これに「ブドウ櫨」の名前をつけたという。それ以来収穫も多くなったので、忠兵衛らは蝋油をしぼってみたが、普通のハゼに比べて蝋の量は多く、色は白色で少しく青味を帯び、光沢があって美しく価格も普通のものの一・五倍であった関係からたちまち近隣の評判になった。
たまたま箕島村田中善吉の後喬善左衛門は、このブドウ櫨の苗木を入手し、この蕃殖を図り、その子実と製蝋を大日本農会主催の第四回農産物品評会に出品して三等賞を得た。それからはブドウ櫨の名声は全国にひろがり、その種苗を求める者が多くなったが、とうていその需要に応ずることができない有様であった。殊に九州や四国地方からの求めが多く、毎年那賀、有田、名草の三郡で苗木数万本を育成したが、なおその需要に応ずることができなかった。この間悪徳業者が現われて、巧みに世人を歎き、悪苗を輸出して利益を食るようになり、これが弊害を除くことはできなかったという。俗に「鬼櫨」というブドウ櫨によく似たものがあるが、専門家でも容易にこれを識別することができないという。
ブドウ櫨の原木
和歌山県指定の天然記念物「ブドウ櫨の原木」は昭和三十年ごろまで野上町松瀬(通称:北峰の中腹)にあった。それが何年に、どのような理由で指定されたか、詳しく判らない。前述のようにブドウ櫨は全国に普及するにつれて、穂木の需要が盛んになり、原木としての価値が上がり、加えて樹齢が古いという理由から指定されたものと思われる。現在枯死してその跡方もない。
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